余命宣告とは

この世に生まれた誰もが到達する、死。

誰もが経験するはずなのに、その先のことは、あまりにも知られていない。

未知の世界のことは、やはり不安。

死は、永遠の別れなんじゃないか。想い出も何も、無くなるんじゃないか。

俺は、私は罪をおかして生きたから、奈落の底へ落ちてしまうんじゃないか。

そういった恐怖の数々。

余命宣告を受けるというのは、生きながらにして死と向き合う過酷な試練になるかもしれない。

そんな貴方に、死を怖れる必要はないと、ここに断言しよう。

どんな病気で余命宣告されたにせよ、死の瞬間から安らかな世界へと向かう。

これまでの肉体的な苦痛は無くなり、精神的な不安さえ嘘のように消え去り、これまでに感じたことのない恍惚に包まれて、言葉に表すことのできない幸せな感覚になるであろう。

これは筆者のみならず、臨死体験した者達の死に直面した際の話しと、あの世からのメッセージとして回答されたインタビューによるものなので、そうだと断言する。

怖くない、いやむしろその真逆なのだ。

死後、身体は無くなるわけだから、自由自在に瞬時にどこへだって行けてしまう。

そう、想えばどこにでも、誰の元へでも行ける。

そんなこと、本当にあるの? そう思うかもしれない。けれど、それが本当ならば、そうなれるのが楽しみにならないだろうか?!

それにはまず、今世での悔い改めは、生きているうちに、なるべく済ませておくこと。

後悔の念があると、自由の翼は鈍い羽ばたきとなってしまう。

あの世へは、清々しい念で飛び立とう。

喧嘩している相手がいるのなら、許し、仲直りしておくこと。もし、その相手と会えないならば、許す、その念を送ること。

余命宣告は、この世の念を整理してしまえる有難い期限である。もう、人間はどうしたって死ぬのだから、余命宣告されてラッキーだったな、くらいな気持ちで受け止める。そうして、この世での想いを整理しよう。

逢いたい人にはしっかり逢う。遠慮などしては駄目。抱きしめ合ったり、キスしておきたい相手ならば、なおさらスキンシップしておく。死後は肉体同士で触れ合うことは出来ないのだから、身体のあるうちに体感しておく。

伝えたいことがある相手には、しっかりと本音で向き合っておく。

あの世からは、この世の全てはお見通しであるが、物質世界のこの世からは、悲しいかな、あの世からのメッセージは、なかなかうまく受け止めてもらえない。

だからこそ余命宣告は、この世での悔いを残さない為の、有難い期限である、そう言えてしまえる。

これからは死を怖がらずに生きる時代になる。

懸命に誠実に生き抜いた魂ならば、死後、必ず素晴らしい場所が用意されている。

そこへ辿り着く為にも、みんなが向かう道を、前向きに進めばいいのだ。

それが残された人間への、絶大なエールにもなる。