死への憧憬

お兄さんは酷い人です。

お姉さんは冷たい人です。

両親を失った僕には、兄弟も親戚もいないものだと思っています。

そうでなければ、どうしてやり切れましょう。

「お兄さん、助けてください」

「お姉さん、苦しいです」

そんなことも言えない血縁が、果たして肉親と呼べますか。

親戚はただ調子がいいのです。

あっちにいい顔、こっちにいい顔、裏では陰口です。

お金があっても、家があっても、家庭を持っていても、心のない人間の、いかに多いことか!

生きられるうちは生きますが、生きられなければ、いさぎよく死ぬ迄です。

誰かの、

「生きていればいいことがある」

なんて、

なんの手も差し伸べない無益な慰めなど、やめた方がいい。

やめてくれ!おかしくて笑う。

死んでも魂は無くならないと言うが、人の間において惨めな思いを続けるくらいなら、死の世界で、たった一人ぽっちの方が、よっぽど気楽ではないか。

僕はもう、そんなことしか、呟きようがない。

 

この手記を読んで、自死に憧れを覚える時の若者に、メッセージを送ったことがありました。

この世に生きながら、死んだつもりで一人を過ごせばいいではないですか。

何もないから見えてくるのかもしれませんよ。

それからしばらくして若者は、閑静な山門をくぐり、朽ち果てかけた山寺の坊主となったのです。

ここでは本当に一人ぽっち。

朝起きて日が暮れて眠るまで、ほとんど人の訪れることがない自然の庵の中で過ごします。

しかしごく偶に拝観に見える参拝者もいて、求められれば寺の説明をしながら、人生の相談に乗ることがあるのです。

その、究極の孤独を知っている坊主の言葉が、何かにもがいている参拝者の心を軽くし、悩みの淵から掬い上げ、いつの間にか密かな評判となり、生き直しをする人々があるのだといいます。

その場所は、ここで教えてはならないのですが、死を考えるほどの悩みがあるからこそ、生き方を変えることができるという、その、ほんの少しだけ視点を転換させることで、誰かの絶望が誰かの支えになり得ることがあるという、そのようなお話をお伝えしたまでなのです。

南無阿弥陀仏