三社祭の少年は
その日、仏間の遺影が曇っていた。何か不吉な雰囲気が漂う。
これは何かある……。
でもその何かがわからない。けれど、そのうちにそれが何であるか閃めくはずだと、その場を見送った。
お風呂上がりにまだバスタオルでろくに身体を拭き終わりもせずに、全裸のまま温かな皮膚から湯気をたちのぼらせ、小粒の水滴を光らせていると、そこへ一本の電話が入る。
着信音がいつもより鮮明に聞こえたので、これは天界とも繋がってクリアな音色であるのだと気付く。
掛けてきたのは叔父だった。
ガンで余命宣告を受けたという。
命の期限は、残り半年。
風前の灯火は、もうすぐ尽きる。
仏間の遺影が曇っていたのは、この事だった。遺影の主は叔父と兄弟であるから、天界から見守っているのであろう。
遡ること70年前。浅草は三社祭の少年神輿を担いでいた叔父は、血気盛んな勢いと、はち切れんばかりの若さで祭りに参加していた。
三社祭といえば、江戸の祭りの代名詞でもある。
浅草神社に祀られる神様は、その昔、隅田川で人の形をした像を網にかけてすくい上げた二人の兄弟と、その像が聖観世音菩薩であると認め、自宅に祀り僧となった人物、この三人を三社権現として祀っている。それが三社祭の由来ともなる。
この時に出現した聖観世音菩薩像は、浅草神社の隣にある浅草寺の秘仏となり、厨子の奥に大切に祀られている。
「南無観世音菩薩」
浅草寺へ参詣の際は、手を合わせてこのように唱える。
かつて少年神輿を担いでいた叔父は、死の期限を告げられた。
ガンと闘いながら死を向かい入れる思いは壮絶であろう。だが一つだけ断言しておきたい。
聖観世音菩薩は、必ずこの世の旅立ちに付き添って、叔父をお迎えに来て下さる。
死とは、無ではない。
死とは、光の世界へ戻ること。
光の世界では、先に亡くなったご先祖様をはじめ、たくさんの神様、仏様が煌々としておられる。
死の瞬間から、この世の苦痛はすべて取り除かれ、素晴らしい光の中へと向かう。
遺影を曇らせた叔父の兄弟が先立つ時にも、観音様が迎えに来られているのを見た。そこにはご先祖様もいらした。多くの光の存在が魂のお迎えにやってくる。
この世から想像する死の世界は恐怖かもしれない。それは見えない世界であるから不安になるのも仕方がない。
けれども本当のあの世は、ただただ、心安らぐ空間であるから、重たい肉体を脱ぎ去った魂は、軽やかに光の世界へと舞い上がってゆく。
かつて三社祭で神輿を担いだ少年は、もうすぐこの世で担ぎ上げてきた重厚な神輿を肩から降ろし、観音様に導かれながら、眩ゆい光になってゆくのだ。
だから叔父さん、この世での余命は、あの世でのスタートラインが近いということ。
決して怖くも寂しくもない。人間誰もが経験する、肉体を脱皮して本質の魂の姿に戻る崇高な物語へと突入してゆくのだ。
そこにはガンの痛みも苦しみもなく、穏やかな空間が待っているのだ。そこからこちらの世界をを思えば、すぐにでも想念で繋がることが出来る。
だからこちらでは、叔父さんの想念を受け取れるように準備しておく。だから、怖がらないで大丈夫。
生きることと死ぬことは、離れ離れになる事じゃない。魂の部分で深く繋がり続けている。
肉体を持つか持たないかだけ。それだけの違い。肉体が無くなったら不幸だなんて、どうして言えるのだろう。魂だけになれば、本質だけが残るという事。だから大丈夫。想いまでは無くならない。
だからこそ毎年、三社祭の神輿は担がれ続けている。先人の想いの全てを乗せて。