命の期限

以前に「三社祭の少年は」という記事がありました。

そこに登場した叔父さんは、余命半年を待たずに亡くなりました。

医者の検査ミスを責めたり、こんな筈ではなかったと、自分を責めていた叔父さん。

けれど、旅立つ二週間前には、その兄弟が枕元に立って心配している姿を、夢に見たと話していました。

それは、あの世からのお迎えでした。

死が近づくと、正確には、あの世に近づくと、先に逝った方々と会います。それは、死ななくとも、生き続けていても、実はよく起こる現象なのです。

さても余命半年という、残りの人生の長さを告げられた人間を前にして、不甲斐なくも、あの世の素晴らしさも、命の期限が決まっている事も告げられずにいる情けなさ。

癒してあげるつもりが、死への恐怖を増幅させてしまうのではないか。本当は、死は怖いことではないのに。どう伝えたらいいのだろう。

言葉はいつも、思いのままには伝わらないもので、肉体の限界が迫る、苦痛の真っ只中にある叔父さんに真実を伝える勇気は、更にあの世の仕組みを伝えて理解してもらう勇気は、かなりのものがあると躊躇してしまうもので。

ただ、この記事を読んで下さっている方には、あの世の仕組みを少しだけお伝えしておきましょう。

あの世の仕組みは、本当は知ってはいけないのです。と、言いますか、本来は自分で思い出していくべきなのです。

そのために、人間は日々思い悩みながら、それでも前を向いて生きていこうとしているのです。

そうして思い出した事を、他人にひけらかしては、もっといけないのです。

ここでは、ひけらかすのではなく、仕組みを少しだけ理解して頂く事で、生きる意味、死ぬ意味を、本来の視点から考えて頂きたくて、お伝えするのです。

 

はっきり申し上げますと、命の期限は、生まれた時から決まっています。ほぼ、決まっていると言っても間違いではないのです。

ですから、余命半年であるはずの命が、それよりもっと前に尽きようとも、余命宣告を受けられただけ、その間の命を全うする時間を、向き合う時間を得た事になります。

人間というのは、本当にいつ死ぬか分からない生き物なのです。

突然死というのは、実は多くあります。

しかしながら、突然に大切な人を失った側は、必要以上にその事を言いません。

そしてまた、聞かされる側も、言葉に詰まってしまう事が多いでしょう。上手く言い繕っても、慰めになるか、ならぬかさえもわからず、上っ面に終わってしまうかもしれません。

亡くなる側から申し上げますと、死の瞬間までに自分の使命を気付かずに天に召された場合、そこには確かに無念も残ります。

この様な視点から言いますと、余命宣告を受ける事は、残りの人間界でいかに自分の使命を果たし、また果たそうと前向きになれるか。それを思い出せる時間を与えられているのです。

人間は、死と向き合わなければ、本気で生とも向き合わないという、怠惰なところがあります。

懸命に生きた魂なら、本当にいつこの世を旅立っても、悔いはないのです。

懸命に生きた人間を見送る時、決して悔いがあるなどと言って、縋り付かないで下さい。

この世で思い切り自分の使命を果たし、命を全うした魂は、次に進むべき次元へと向かって、もう上昇をはじめているのです。

だからこそ、それを引き止めずに、大きく手を振って、清々しく飛び立って頂くのです。

この世の別れは、あの世のはじまりです。哀しみではなく、本当は喜びなのです。

この世の苦痛から解放されたのですから、まずはその事を理解してあげて欲しいのです。

 

また、少しずつ、あの世の仕組みをお伝えしますね。

その時まで、たくさんの気付きがありますように。